[東町]・[藤野]・[堀内]
印内薬師・桜井戸・式部太夫の墓・円光寺・桜井城址
所在地:桜井町桜林16
この薬師堂は、通称印内(いない)にあることから「印内薬師」とよばれ、「川島薬師」・「古井薬師」とともに、この地方では「三薬師」とよばれていました。 1958年6月28日、県文化財の指定をうけました。 |
|
寄木造薬師如来坐像は、高さ143cm、平安時代末期の作である。堂々としたふくよかな面持ち、なだらかな衣のひだの線は、藤原時代末期の様式をよく伝えています。柳葉形の眼や右手の指の間の水鳥の水かきのような縵網相(まんもうそう)、頭に小さく刻まれた螺髪(らほつ)も注目されます。 桜井神社の本地仏として、神宮寺に安置されたものと思われ、往時の壮大な神宮寺の面影をしのばせます。 |
桜井の井戸は、三河国四名井の一つとして、古井・藤井(以上安城市)・浅井(西尾市)の井戸とともに昔から知られていて、戦前までは清涼な清水がわき出ていました。 |
その起源については、聖徳太子が当地を巡幸されたとき、村人が飲料水に不自由をしているとお聞きになって、桜の樹の下を杖でお掘りになったら、清水がわき出たと伝えらています。桜井の地名はこの伝説に由来するともいわれています。また一説では、垂仁(すいにん)天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこ)が掘られたともいわれます。 後に弘法大師が諸国巡礼のとき、この地に立ち寄られて、次の一首を詠まれたといいます。 散水は 浮びちらねば 花のかげさして いつもつきせぬ 桜井の水 (二葉松) |
「棒の手」は、六尺のカシの棒を武器とする武術で、全国的にも珍しい愛知県が誇る郷土芸能です。昭和39年に県の指定を受け、現在桜井町下谷部落の保存会によって受け継がれています。起源は永録禄3年(1560)桶狭間の合戦のときの落武者式部太夫(しきぶだゆう)がきて、下谷部落にとどまり、農民に伝えたのが起こりとされています。江戸時代には、農民の民族芸能として氏神の祭礼に五穀豊穣を祈って奉納されるようになりました。式部流と称し、今も26種を伝えています。 |
円光寺は桜井町中開道にある浄土真宗の寺で、本寺の野寺本証寺と同じように鼓楼が残っていて、戦国時代の「城郭伽藍の寺」の形をとっています。 文明4年(1472年)10代順智のとき、蓮如上人より自画像を下附され、明応6年(1497年)方便法身尊像を実如上人より下附され、本証寺についで由緒深い寺で、数多くの寺宝があります。また、一向一揆における安政の合戦での順正の活躍は、後世に伝えられています。 |
|
鼓楼は、明治6年に開校された第44番桜井郷学校の校舎として利用され、同12年桜林に新校舎のできるまで使用されていました。 |
城山公園 |
桜井城は桜井松平の居城で、城址は碧海桜井駅の北東、城山公園・靖霊神社のあるところです。湿地帯の中に半島状に突き出た台地の先端に築城した平城です。 この城には、はじめは地元の豪族小浦喜平治忠重が住みましたが、安祥城の松平親忠(ちかただ)の子親房(ちかふさ)を養子にむかえ、松平を名乗ることになりました。親房には子がなく、長親(おさちか)(親房の兄)の三男信定(のぶさだ)を再び養子にむかえました。信定は武勇に優れ、松平18家のうちでも本家松平につぐもっとも大きな勢力をもち、しばしば本家安祥松平と対立するほどでした。信定以降、清定・家次・忠政・忠吉・家広と続きますが、天正18年(1590)家広のとき、徳川家康の関東移封にしたがい武蔵国松山城主となり、桜井城は廃城になりまし。 |