東町コースの紹介
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姫小川古墳姫塚古墳亀塚遺跡誓願寺


姫小川古墳
所在地 :姫小川町姫38〜40

全長66m、前方部の幅31.5m・高さ4.5m、後円部の直径39m・高さ9mの前方後円墳です。前方部が低く、後円部が高いのが特徴で、古墳時代前期の古墳です。
前方部を南東に向けて、台地の端に作られています。北側の民家の家屋の高さと比べてみると、古墳のの高さがよくわかります。
後円部墳頂には、浅間(せんげん)神社が祭られています。

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姫塚古墳 所在地:姫小川町姫49


姫塚古墳
姫小川古墳群の一つで、台地の端にあり、西側と南側は、一辺25mの方形に見えます。方墳とする説もありますが、畑の耕作でけずられたもので、古墳時代後期の円墳です。
高さは3.6mあり、古墳の上には「姫宮墓(ひめのみやのはか)」と刻まれた古い石塔や、中世の宝筐印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔の一部があります。
古墳の南側に崖がある崖古墳です。

綾姫の墓
姫塚古墳の綾姫伝説:孝徳天皇の時代、すなわち大化の改新の頃(7世紀中頃)のこと、今の姫小川の海のほとり「萱口(かやぐち)」に、2人の女を乗せた舟が流れ着きました。村人たちに助けられた老女の語るところによれば、若い女は皇女綾姫様で、老女はその乳母であったということです。
綾姫が15才の頃、若気の不行跡のため都から追放されることになり、摂津国から舟で流れ着いたのが「萱口」でした。村人たちの庇護のもと、平穏な歳月が過ぎ、乳母を亡くし、この地にきて36年、綾姫は病を得て亡くなりました。52才でした。
この綾姫を葬ったのが姫塚であるといいます。

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亀塚遺跡 所在地:東町亀塚

碧海台地東側の低地を流れる、鹿乗川の両岸は、弥生時代前期から古墳時代前期(2300〜1500年前)にかけての集落遺跡です。
1974年と1977年の2回の発掘調査が行われ、弥生土器・土師器(はじき)・銅鏃 木製品が出土しました。中でも桜の皮で編んだ篭に入った壷や、たて櫛・線で人の顔を描いた人面文土器は、全国的に見ても貴重な資料です。
人面文は、卵形または楕円形の顔の輪郭、レンズ形の両目、頬に線の束であらわすイレズミ、両耳の耳飾り、あごに描くE字形の表現(あごひげ、イレズミ)をへらで描く線であらわすことが特色です。亀塚遺跡の例が1981年10月発表されて以来、同類の描き方をした顔の図が全国各地で発見され、今では15例以上になりました。これらは全て、弥生時代後期から古墳時代前期(1800〜1600年前)に描かれたものです。

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誓願寺 所在地:姫小川町姫150

浄土真宗大谷派の寺で、寄棟(よせむね)造りの本堂と入母屋(いりもや)造りの鐘楼(しょうろう)がみられます。戦国時代末期に建てられた城郭伽藍(じょうかくがらん)様式の寺で、現在では、東側に堀・西側に堀と土塁が残るだけですが、その面影を残す寺は他には多くなく貴重な構造です。 この寺には、明応年間(1492〜1501年)に作成された「方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)」(阿弥陀如来を描く絵像)があります。これは、本願寺系の寺と認定された「しるし」に本山から与えられたものであり、そのうちでも古い例です。
境内には、戦国時代の武将、内藤重清の墓や戦国時代末期の年号を記す墓、浄土真宗門徒の古い墓があります。江戸時代末期に寺子屋の師匠として活躍した誓願寺義鳳(ぎほう)の墓もあります。

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