藤野コースの紹介
[東町][下谷][堀内]
川島薬師太田屋敷桜井神社芭蕉句碑


川島薬師 所在地:川島町


昔、矢作川に草刈りにきた男が、かまにひっかかった小さな木像をむらに持ち帰り、お堂にまつったのが始まりと言われています。その時にできたかまの傷跡が残っているそうです。江戸時代のころ、川島村にあった薬師如来像は、高棚村に移されたそうです。
そして、現在ある薬師如来木像は中根村から移されてきたものだと言われています。高棚の薬師如来座像は、首と胴体のはめ込みに、墨で書かれた年号があり、室町時代に制作されたものであることが分かります。
明治のころには、印内・川島・古井の薬師を三薬師と呼ぶ人もあった。昔は、郷南の野中の島畑にお堂が建っていましたが、新幹線が通るということで、今の所に移動してきました。11月11日にはお祭りが行われ、開帳されます。

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太田屋敷 所在地:川島町


楠のある舟着き場から、近いところにこんもりとした森があります。それが太田屋敷といわれるところです。太田氏は、藤の郷の土豪として、古くよりこの地に住み、居館を構えていました。田圃に土るいを築き、その外側に堀をめぐらしました。初期の城館の形態をととのえていました。
ここには、太田主計、左馬介父子がいたと伝えられ、その子孫は、水戸の徳川家に使えたといわれています。この地に住んでいた一族は、横浜の海浜埋め立てを行い、横浜の太田町をつくり、地元にいた太田佐兵衛は、弘化3年(1846年)宝飯郡の竹ノ谷、捨石の新田埋め立て工事を行っています。
昔から財政力を持った太田氏は、江戸末期に西三河地域の木綿問屋が不況で倒産したとき、一時これを引き受けて総問屋を仕切った事が記録に出てきます。信三鉄道の新設や銀行の創立等、地域の発展に代々貢献されてきました。

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桜井神社 所在地:桜井町桜林17





平安時代の「延喜式」では比蘇神社、古代の神社記の「神名帳」では、従五位比蘇天神と記載されている由緒ある神社です。
現在の本殿は、1527年(大永7)桜井城主・松平親房(ちかふさ)の寄進により造営されたものといわれています。1610年(慶長15)には、幕府の命令によって、またその後も数回改修していますが、創建時(室町時代)の様式を今に残しています。桁行3間・梁間1間・切妻造り・平入りの形式で、前流れの庇を延ばし、向拝としているところから、「三間社流造り」と呼ばれています。そりのある屋根は、桧皮葺(ひわだぶき)で、棟は千木(ちぎ)・堅魚木(かつおぎ)がなく、箱棟(はこむね)に鬼板をつけています。
正面の階段には登高欄(のぼりこうらん)、回縁(まわりえん)には組高欄、また両袖には、脇障子を配置しています。面取りと呼ばれる角を落とした柱、花模様を彫刻したかえる股の形式などには、室町時代の特色が見られる。1963年11月3日に、市の文化財に指定されました。

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芭蕉句碑 所在地:村高町藤野元 村高天神社境内

咲くほどに
藤野もゆかし
春の暮れ

この地が藤野の里(河野・川島・村高一帯)と称され、藤の名所であったことから、それを記念する句碑が建てられたものです。裏面に「芭蕉翁」と刻まれています。
←村高天神社

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