いし かわ き へい              
          〜石川喜平〜 
 い し か わ  き へ い                            
 石川喜平について

               
 てんめい           ねん   たかたなちょう  う          べんがく  こころざ    さい   わさんか     しみずさちさぶろう 
 天明4(1784)年に、高棚町に生まれる。勉学に志し19歳で和算家の清水幸三郎
  もん  はい   れきがく   まな      きへい      こっくべんれい           おうぎ   きわ    だいきゅうだい  しはん
の門に入り
 暦学を学んだ。喜平よく刻苦勉励し、その奥義を極めて第九代の師範となる。
   
ご   しはん   まご    しみずかへい   つた       とうじ     がくもんぎげい    ひみつしゅぎ     じぶん    まな 
その後、師範を孫の清水嘉平に伝えた。当時、学門技芸は秘密主義で、決して学んだことを

 た   りゅうは    おし       きへい   しんもん   でしい           どうじ    か         ししょう      ていしゅつ

他の流派へ教えず、喜平も神文を弟子入りと同時に書いて、師匠に提出した。
              

     ご   つづきやこう    めいじようすいかいさく     そくりょう おこな      しゅっしんち   たかたな

その後、都築弥厚と明治用水開削の
測量を行った。出身地の高棚の
じゅうみん あしいけ  しんいけ  みず   じゅうぶん                 そくりょう   むらびと   め   ぬす 
住民が芦池、新池の水で十分だとしていたので測量は村人の眼を盗んでしなければ
         
 やはぎがわ    よしはまむら    そうろくじゅう                 そくりょうず    のち   めいじようすい
ならなかった。矢作川から吉浜村まで総六十キロメートルの測量図は後の明治用水
かいさく    りよう       きちょう   しりょう           
開削に利用され、貴重な資料となった。
    よる   きへい   でし たち     あつ   にわ  ゆかだい   だ      うちゅう   ほし      きょり   かんそく
ある夜、喜平は弟子達を集めて庭に床台を出し、宇宙の星への距離を観測した。
          そろばん   けいさん     すうじ     あ               でしたち   たしか   
ところが、算盤で計算しても数字が合わないため弟子達に確かめさせ、
             ひとり   ゆかだい  いっぽん   あし  い                と   のぞ         ふたた   そろばん   
そのうちの一人に床台の一本の脚に入れたかわらを取り除かせた。再び、算盤を
ひ               せいかく  すうじ     で 
弾いてみると、正確な数字が出てきたといわれている。
                    

          
       いしかわきへい    どうぞう           そくりょうどうぐ
      石川喜平の銅像         測量道具

     いしかわきへい      はか
    石川喜平のお墓
 いしかわきへい     たた      ひ
 石川喜平を称える碑
          

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