北部小 100年の歴史を 100枚の写真で綴る・・・ あれから100年 これから100年・・・

少年少女時代を過ごした わが心のふるさと 安城北部小学校

楽しさや貴重な思い出が 凝縮されて、今ここによみがえる・・・・・

大人になって思い起こすのは、子どもの頃に接した人たちのあたたかな心・・・・・

私たちの地域や学校を大切にしようという思いがわいてくる・・・・・ 愛着がわいてくる・・・・

北部小学校100年の歴史を 貴重な100枚の写真でふり返る・・・ そして、明日を見つめる・・・
 
                               あれから100年・・・ これから100年・・・


明治41年4月1日 愛知県碧海郡安城第五尋常小学校として開校
学級数8、児童数366名で開校 初代校長は市古市郎 氏
 明治40年3月、小学校令の改正により、これまで4か年であった義務教育年限が6か年に延長されました。市町村に小学校設置が義務づけられたことに伴い、安城第六・第七尋常小学校を廃止し、両校を合併して安城第五尋常小学校を創立しました。新校舎設立まで、従来の学校の校舎をそのまま使用しました。

▼初代 市古市郎校長 ▼愛知県碧海郡安城第五尋常小学校印


 明治期の小学校の修業年限は、数度の小学校令改正により変更されています。明治33年の改正で、義務教育制度の整備(義務教育の無償化など)がなされ、尋常小学校は4年制となり、高等小学校も4年制となりました。明治40年3月には、義務教育年限が2年延長され、尋常小学校は6か年、高等小学校の修業年限は2か年となりました。
 明治40年公布の小学校令には、「児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ其本旨トス」とあります

▲明治43年3月 第1回 卒業生 ▲安城第五尋常小学校 修業証書


明治43年7月 尋常小学校唱歌に『われは海の子』登場

 『われは海の子』は、明治43年に『尋常小学読本唱歌』で発表された文部省唱歌です。歌詞は全部で7番までありますが、今日歌われているのは3番までとなっています。明治後期の詩人による歌詞であり、古めかしい表現が多く、現代の子どもの童謡としては違和感もあるかもしれません。
 この本は、それまでの唱歌の考え方と異なり、文部省が歌の著作権を原則的に有するとし、歌は委員会の討議にかけられ完成しました。結果、特定の作者名は記載されることはなく、しだいに学校で教えられる歌は「文部省唱歌」と呼ばれるようになりました。



われは海の子 白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
わがなつかしき住みかなれ

生まれて潮にゆあみして
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひて童となりにけり

高く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂とわれは聞く

 郵政省では、昭和54年に広く国民に親しまれる唱歌をテーマとして、「日本の歌」シリーズ切手を発行しました。音楽に接する環境も大きく変わってきていることから、ジャンルを問わず多くの人に親しまれている歌を「わたしの愛唱歌」シリーズ切手として発行しました。この『われは海の子』の切手は、平成10年7月6日発行され、波打ち際に、日焼けした少年が海で捕らえた魚を手にして誇らしげに立っている様子が描かれています。

 「かたつむり」や「桃太郎」などは、だれもが幼少の頃に口ずさんだ歌です。また、「ふじ山」「もみじ」「春の小川」「ふるさと」といえば、世代を超えて歌い継がれている文部省唱歌の代表曲です。現在も小学校の音楽教科書に掲載され、100年もの長い間歌い継がれ親しまれています。


大正時代の授業は・・・   修身・国語・算術・唱歌・体操など
 明治・大正・昭和前期の日本の小学校は、尋常小学校と呼ばれていました。尋常小学校は6歳から12歳までの6年間の義務教育です。当時の授業内容としては国語、算術、修身などがあり、なかでも修身は非常に重視されました。
 当時は、義務教育である尋常小学校でさえも、月謝が平均して15銭ほどかかり、上の高等小学校の場合には、さらに高い授業料を払わなければなりませんでした。
 大正8年3月、小学校令施行規則の改正があり、理科を尊重して科学教育を改善し、地理および日本歴史の時間を増加して国民精神の涵(かん)養につとめることとしました。右の表は改正された尋常小学校の教科目および週当たり時間数です。
 この表によれば、開校当時(明治43年)に比べ日本歴史と地理が第5学年からあわせて3時間課されていたのを、それぞれ2時間ずつ第5学年から課されることに改めて、時間数が増加しました。また理科2時間を第5学年から課していたのを第4学年から2時間ずつ課すこととなって増加されています。
 国語読本は、明治から昭和にかけて文部省が編集した尋常小学校の国定教科書です。その後、時代に合わせて改訂されています。当時の全国の小学生が同じ教科書を使ったので同世代の共通の話題として重宝されています。
▲大正8年の教科・授業時数(大正8年)

▲尋常小学 国語読本巻1   大正7年

「ももたろう」は、時代を超えて・・・  多くの子どもたちの心をひきつけてきました
 むかし むかし、あるところに おじいさんと おばあさんが くらして おりました。おばあさんが いつものように かわで せんたくを していると、おおきな ももが ドンブラコと ながれてきました。いえに もって かえって、ももを たべようとすると…。
 桃から生まれた元気な男の子「ももたろう」が国語の教科書に登場したのは、大正7年。
 鬼が人々を困らせているという話を聞くと、「ももたろう」はさっそく鬼退治に出かけます。その「ももたろう」に勇気と力を与えてくれたのは、おばあさん手作りの「きびだんご」でした。正義感にあふれ、広い心をもった少年「ももたろう」が大活躍する昔話です。「ももたろう」は、時代を超えて、多くの子どもたちの心をひきつけてきました。
 下の文部省唱歌「桃太郎」は、だれもが幼い頃口ずさんだ歌です。


▲大正5年3月 第7回卒業生 ▲大正6年3月 第8回卒業生


昭和2年 なんじゃもんじゃ植樹   今では 北部小学校のシンボルに・・・
 安城北部小学校の校庭に「なんじゃもんじゃ」が植えられたのは、昭和2年のこと。今本町の神谷礼治氏から寄贈していただきました。当時神谷氏は自生地である犬山に勤務していました。真っ白に咲き誇る「なんじゃもんじゃ」の花に魅せられ、その美しい姿を学校の子どもたちに見せようと思いました。しかし、木の持ち出しは禁止されていたため、若木をもらうのは容易ではありませんでした。自分の思いを伝え、地域の理解を得て、安城北部小学校へ大切に運んできました。こうした困難を乗り越えて、北部小学校の校庭に植えられました。当時の樹高は1m50cm、親指大の太さの幹でした。
 昭和の頃は、枝葉が運動場に大きく伸びると危ないからと、下の写真のように枝を切り落としていました。花もほとんど咲きませんでしたので、当時の子どもたちにはあまり印象に残っていません。
 この「なんじゃもんじゃ」が有名になったのは、昭和50年代です。今では、もともとの自生地である愛知・岐阜の県境である木曽川沿いとともに、毎年ゴールデンウィークの頃、多くの見物客でにぎわっています。

 「この樹はいったい何だろう」「この木はなんじゃ」というところから、「なんじゃもんじゃ」の木と言われるようになりました。
 平成20年現在、樹高は12m、幹径40cmです。今後大切に育てていくと、100年先には樹高30m、幹径も60cm以上の大木になるとも言われています。

 花は4月下旬から咲き始め、ゴールデンウィーク中に雪がかぶったように満開になります。この頃は、花の少ないときだけに、一段と精彩を放っています。真っ白な花で、花弁は細く4本に裂けていて長短があり、ちょっとダイモンジソウを思わせる花形です。

昭和40年代のなんじゃもんじゃ と 平成20年のなんじゃもんじゃ


  安城が「日本デンマーク」と呼ばれた頃   昭和初期の安城第五尋常小学校では・・・
▲昭和4年の校舎  学校周辺は田畑が広がる 児童数は480名

▲昭和3年3月 第19回卒業生 ▲昭和4年3月 第20回卒業生

 昭和の幕開けは、政治的、経済的、国内情勢の不安のもとに始まり、昭和6年の満州事変、つづいて上海事変、5.15事件を経て、国際連盟の脱退に至り、東洋の孤児として軍国へと進展していきました。
 この非常時のもとで、言論、思想、教育の統制もきびしくなり、学校教育においても、昭和8年はじめてのカラー印刷の第4期国定教科書となり、修身、歴史の中に国粋的な観念が強調されるようになりました。
 この頃、安城は「日本デンマーク」として知られるようになり、全国から視察者が訪れていました。全国の農村は昭和初期の不景気にみまわれていましたが、安城の農家は裕福でした。その秘訣を探ろうと駅(国鉄安城駅)は、連日大勢の見学者が汽車から降りてきて、大にぎわいでした。見学者は、年間1万2千人を超え、これを目当ての商売も大繁盛しました。駅前や繁華街には「日本デンマーク」指定店の看板をあげた旅館、料理店、食堂がずらりとならび「安城座」「帝国館」「弥生館」といった演芸場や映画館も建ちました。
 このデンマーク農業を開花させたのは、安城農林高校の初代校長・山崎延吉でした。教育はもちろん、農村振興に生涯をささげました。卓越した指導により、多角型農業の推進、農産物の流通市場の整備などに力を尽くしました。
▲県立安城農林高校 初代校長 山崎延吉検閲の第3期国定教科書「農業」 昭和3年

▲昭和4年 第3期国定教科書「農業」 ▲昭和4年 第3期国定教科書「理科」

▲昭和9年の校舎 遊具は 鉄棒とすべり台だけです。 学校周辺は、田畑が広がっています。 児童数は540名

▲昭和9年 第4期国定教科書「修身」 ▲昭和9年 第4期国定教科書「国史」


今もなお 生き続けている 二宮金次郎像   昭和9年 石像建立

▲昭和9年当時の石像
 二宮金次郎の石像は、日本一、いや世界一の数です。安城北部小学校にも、二宮金次郎は本を読みながら薪を背負い、働いている様子が見られます。
 子どもの頃、山へ薪を取りに行く際、行き帰りの時間がもったいないからと、「論語」や「大学」などの中国の古い書物を読んでいました。働き者で勤勉なこの姿が昭和の始めころから全国の小学校に建てられるようになりました。岡崎市の石屋さんが作り始めたのが最初といわれています。
 1mの単位が小学生によくわかるように、二宮金次郎の大きさは1mに作られたと言われています。ちょうど小学校
1年生と同じくらいの背丈となっています。
 昭和45年以降、校舎の建て替え時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあります。


▲平成20年春の石像







 文部省唱歌に、「二宮金次郎」の歌がありました。
柴刈り 縄ない 草鞋(わらじ)つくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行つくす 手本は 二宮金次郎
骨身を惜しまず 仕事をはげみ 夜なべ済まして手習い読書 忙しい中にも たゆまず学ぶ 手本は 二宮金次郎
家業大事に 費えをはぶき 少しの物を粗末にせずに 遂には身を立て 人をも救う 手本は 二宮金次郎
        ▲昭和21年発行の1円札に、二宮尊徳(金次郎)の肖像画が載っています。


昭和20年代 平屋の木造校舎が次々と竣工   昭和27年 校名変更 安城市立安城北部小学校に
 終戦後の昭和22年には、新教育への力強い歩みが始まりました。3月31日に教育基本法、学校教育法が公布され、4月1日より小学校6年、中学校3年の計9か年を義務教育とする6・3制の新学制がスタートしました。当時の学校数は、中部小・南部小・西部小・東部小・北部小の5小学校と、南中・北中の2中学校、計7校でした。この頃の北部小学校の児童数は、900名を超えていました。
 昭和29年 正門・本館が竣工しました。この頃は、教育の大きな節目を迎え、大碧海郡といわれた大世帯から、安城市への分離により、市独自の教育文化を築き上げようという願いと志気が高まっていました。児童数は、1,000名を超える大きな学校になりました。

 昭和20年代は児童数が増え、教室が足りなくなり、次々と校舎が建ちました。昭和27年には、児童数1000人になりました。上の写真は球技大会(フットベースボール)の様子です。

校内ソフトボール大会の様子です。みなさんのおとうさんやおかあさんが楽しんでいます。

昭和24年3月 北校舎4教室が竣工しました。 昭和28年5月 中校舎5教室が竣工しました。


山の学習から 自然教室へ   鳳来寺山から 作手高原野外センターへ
▲ 昭和30年  山の学習は 鳳来寺山へ 仏法僧の鳴き声を聞きながら 1425段の石段を登って・・・

▲ 昭和47年から 山の学習は 作手村へ テントで寝泊まりの1泊2日

▲ 平成20年9月 作手高原野外センターにて 3泊4日の自然教室


木造校舎から 鉄筋校舎へ 昭和45年から次々と・・・ 児童数が急増の10年間
▲昭和46年1月8日 はじめての鉄筋校舎 9教室が完成

▲昭和48年10月2日 秋の大運動会 12教室を増築中 ▲昭和51年1月25日 職員室、保健室などを増築中

▲昭和49年2月5日 本館21教室が完成  木造と鉄筋とが半々 児童数は、1,300人に・・・


修学旅行は いつの時代も 大きな思い出に・・・・
▲昭和15年度 修学旅行 この年のみ伊勢、奈良へ ▲昭和39年度 修学旅行 宇治の平等院鳳凰堂へ

▲昭和63年度 修学旅行 京都・奈良へ

▲平成10年度 修学旅行 ホテルでの夕食の様子

▲平成15年度 修学旅行「ボールペン旅行」 ▲平成20年度 修学旅行「手のひら旅行」


航空写真で見る 校舎の移り変わり 昭和から平成に 校舎は 木造から鉄筋に 正門は 西から南に
▲昭和53年 本館は鉄筋3階建 南・中・北校舎は木造 ▲昭和56年度 木造の北校舎が残っています

▲昭和59年度 すべて鉄筋校舎に ▲昭和63年度 開校80周年の様子 正門は西側

▲平成5年度 正門は南へ 北小の森ができあがる ▲平成20年度 開校100周年の様子